トヨタ期間従業員に行こう

トヨタ自動車期間従業員であった筆者が期間工、派遣社員、非正規社員についてや雇用の問題そして1年間にわたる失業生活、その後のタクシー運転手としての日々なんかをぬるめに書いています。

ambivalent
もうこのブログも止めてしまおうなんて思う朝なんだけれど、どうしてそういう風に思ったかというと長くなるので割愛。しかも曇天、いやな土曜日にはうってつけの空模様。湿度が高いのがこの街の特徴で、それは前にも書いたのだけれど、そういう街にたいするイメージ、先入観ってのが、さらに不快感を加速する。まったくいやな土曜日。


三河湾に沈む夕陽は、やっぱり綺麗ですよね。昨日久しぶりに見ました。そしたら、なんか、とても深く沈みこんでしまって、順が「一緒にホームレスにでもなろう」なんて言うので、ま、それも良いかなんて思ったりして。

その幸せを、少しだけ分けてくれないか。
そのポケットに一杯詰め込んでいる幸せをだ。
涙の跡をたどると、いつもあの年の思い出があって、
6畳一間のこの狭い空間のような閉塞感、
そんな人生を送っていて、
そんなことしか考えることしか出来なくなっている自分を、
少しだけ嫌いになっている。

どうせなら雨が降ればいいのに。


あの2004年のことを書こうと思っている。
あの年のこと。
ボクが住んでいたあの街のことと、そして、あのビルでの出来事。ボクがこのブログを始めるきっかけとなった出来事が起きた日々のこと。ボクがまだいまより3歳若くて、そしてボクがまだ今よりももう少し夢を語れた頃、そして辛く悲しい思い出の頃。

まだ感触として残っている、あの夏のこと。肌に少しだけマトワリつくような空気。ちょうど、この街の風のようなカンジの感触、それが残っていて、ボクを、悲しくさせる。いまでも夢に出てくるTさんと最後に会った日や、Kくんの声を最後に聞いた日、Mさんが泣いていた日々。あの頃、ボクたちは猛暑といわれた夏をどう越すかということよりも、やはりベルトコンベアで運ばれるような日々を送っていて、やはりプラスチックのような街で、少し生きることの意味をなくしていて、幸せなん言葉を使うことを、やっぱり少しだけ怖がっていて、その日の無事終わることを、ひたすら祈るような日々を送っていたんだ。

2004年。ボクが仕事を辞めて引っ越した年の事を。
だから、もう少しだけ、続けようと思っているんだ。誰がなんと言おうと、もう少しだけは、頑張って書いてみようと思っている。



田中和風寮
ちょうど3年前の話。2004年の春、聖心清風寮の桜はかろうじて残っていて、それだけがボクの気持ちを、ほんの少しだけ優しくさせた。ボクの人生が少し方向転換した年のこと、そしてボクが初めてトヨタに来た年のことなんだ。このブログの2006年分とかに田中和風寮の写真が使っていて、それは誰がどのように写したか、なんてことを聞かれたことがあったんだけれど、あれは実はボクが田中和風寮に住んでいた頃、2004年に写したものだったんだ。

田中和風寮
2004年は猛暑で、工場入口の温度計が一直の入場時に30度近くあった朝もあったんだ。その年、あの堤工場での災害もあって、少しだけ、いつもと違った年だったのかもしれない。

その春、ボクは初めてトヨタ期間従業員に来たのだけれど、ボクの身の上に起こった様ようなことについて気持ちの整理もつかないまま、退職、引越し、期間工ということをひと月少しの間に、何かに取り憑かれたように、そして儀式のように、淡々粛々とライン作業のように行なった。何かを考えていたということではなくて、やはり何かに動かされていたというようなカンジの日々だった。

多くの期間従業員がそう感じるように、やはり「来たぞ」という高揚した気持ちではなくて、「とうとう来たか」なんていう少し落胆した気持ちで、あの聖心寮の受入れ教育会場に座っていた。そして多くの期間工がそうであるように、ストイックな期間工生活を望んでいたし、その生活のための道具一式はKarrimorの40リットルのザックひとつだけで、宅配便での荷物もなかったんだ。それは、今考えると、その春から十数年前のニューディリー空港に降り立ったボクと、ダブっていた、ように思う。期間従業員という場所は、ボクにとっては、通り過ぎるだけのところのように感じていたし、目的地は、というか、ボクには帰る場所があったのだし、そこが最終目的地ではなかったからなんだ。

高岡工場に配属されたボクの入寮先は、あの伝説の田中和風寮だった。「あの」ということは、その頃は知らなくて、そこに住むようになって分かってきたことだったんだけれど、初めのころは、こんなものかもしれないと、そしてたかが半年だからと、思っていた。それに、個室になったのは十年ぐらい前からのことで、それまではどこの期間工にしても相部屋が普通だったから、ボクにとってはそれほど田中和風寮の特殊性みたいなものを感じることはなかったんだ。

金曜日の高岡工場での作業訓練が終わったあと、ボクたち田中和風寮入寮者は寮のロビーで入寮説明を受けた。その日がボクが6ヶ月住んだ、あの階のあの部屋の第一日目だった。

ボクの部屋はA室で、通路側の小さい窓しか開かない昼間でも薄暗い場所だった。思い鉄製の扉の音が開閉するたびに部屋中に響いた。その拍子に天井裏に住み着いているのだろう何かの臭いが届いてきた。

2006年からは、受入れ寮、受入れ教育会場となっているので、ほとんどの人が田中和風寮がどんなものであるか知っているのだけれど、そしてそのために、寮の住人の数も減っているのだけれど、あの頃の田中和風寮はほぼ満室状態で、同じような境遇の人たちがいるということが、少しボクたちを安心させた。それでも同じ境遇の者同士という意識よりも、黙って溜息をしあうというということで、ボクたちは微妙な苛立ちのバランスを保っていたように思う。

ボクの部屋にはB室にMさん、C室にTさんがいた。ひっそりと、信じられないぐらいひっそりと暮らしていた。あの年、思い出すたびに泣いてしまう、あの日々のそしてあの部屋の思い出は、11階の通路から見た水平線に沈む夕陽のように、ボクの中では乾いたものとなっていて、それを潤すように、涙が流れてしまうのだろうと、思っている。それでも、記憶は永遠に潤されることはないと、思っているのだが。
冬のソナタ
田中和風寮の生活が始まった金曜日の午後、MさんもTさんもその週は一直勤務で、ボクが荷物を部屋に運び入れている時に二人とも部屋にいる気配がした。少しして初めてMさんと顔を合わせたのが、その部屋の住人との最初の出会いだった。



その時、Mさんは不思議なことを言ったんだ。「私、出身は韓国なんです」とボクには聞えたのだけれど、それがどういう意味なのかは、そのときには分からなかったんだ。「そうなんですか」とだけ、ボクは答えたように思う。「名前読めないでしょ?」と名札を指差して言うMさんのその指の方向にある名前を、確かにボクは読めなかった。もうそれ以上聞くのは、ボクにはとても疲れる作業のように思えたし、それは何かいけないことのような感じもしたんだ。

トヨタ自動車の大きな雇用力というものは、初回40歳、経験者だと59歳まで雇うという年齢の壁がない/低いことだと思う。それとは別に、例えば応募するのに必要なものといえば履歴書一枚だけで、その過去になにがあったとかということはほとんど問題にならないし、現在においても履歴書を調べているのかということさへも疑問に思うぐらい、簡単に入社できるということ、すなわちほとんど壁がない/低いということなんだと思う。

よく言われることなんだけれど、身元保証人がひとりいれば、それも確認の電話とかもないから身元保証人の名前と印鑑さえあれば入社できるので、「驚くような経歴の人がいる」そうだ。確かに応募する本人さへも雇用保険被保険者証と年金手帳だけが本人を確認する方法だけのものだから、それさへ手に入れれば、たとえ本人でなくても入社できるのではないかと思う時がある。

いろいろな人がいるということは、何もそんなことを考えなくても、あの田中和風寮やボクたちが現在住んでいるトヨタ自動車の寮を考えれば、「確かに、いろいろいるよ」と納得いくと思う。刺青が有る人は面接で落とされるのだけれど、せいぜいそれぐらいがふるい分けしかなくて、そしてそれがトヨタの何かを守るための必須条件なのかと考えると、その何かとは、やはり作業中や寮生活の秩序なのかと思っているんだ。

要するに、ボクは、トヨタが求めるのは、ごく普通の人たちで、その人たちには極力感情を抑えて仕事なり寮生活を送ってもらいたいのではないかと考えている。たとえば任侠道を歩き続ける男気のある人だと、CLやGLと切った張ったになるようなことだってあるだろうし、配属組で「組」を作らないとも言えないだろうから、歩くとしたら「トヨタ道」をまっしぐらという人のほうが好ましいのだろうと、思っている。

あの田中和風寮の部屋も、ごく普通の人たちが住んでいて、そして表向きには感情を抑えて暮らしていた。Mさんがネイティブなコリアンだったとしても、それは特に問題にならなかったし、それどころか後輩であるボクやTさんには頼りになる人だったんだ。

その年、2004年には「冬のソナタ」がテレビ放映されていた。Mさんは毎日欠かさず見ているようだった。あの音楽と韓国語の台詞がフスマ越しに聞えてきていた。それはMさんの二直の時の日課で、そして番組が終わると必ず家に電話していた。Mさんの家は関西のほうで、そこには奥さんと2人の子供がいるということだった。

電話はまず奥さんと話して、そして最後は子供たちと替わって、ただ「うん、そうなんだ、そうそう」なんて言葉の繰り返しで、受話器の向こうから聞える我が子の成長をただ思い出しているようでもあった。そして最後はいつも泣いていた。

Mさんの悲しみは、きっと、その韓国語のドラマを見た後にわが子と話すということにおいて、自分たちの運命なんてものを、少しだけ思っていたのかもしれない、とボクは考えていた。「今度帰るからね」といつも言っていた。それほど遠い距離でもない家族の間が、多分Mさんには永遠のように感じられたのかもしれない。鼻をすする音が聞えていた。

ボクの二直の朝は、いつも冬ソナのあの歌と、そしてMさんの泣き声で始まっていた。フスマ一枚隔てた向こうから聞えていた。ボクはいつももらい泣きしていたし、それはTさんも同じだったに違いないと思う。ボクたちは何かと別れを告げて田中和風寮に住んでいたし、トヨタに来ていた。それがトヨタに出稼ぎに来るということだった。

あの11階建ての巨大な寮の中には、どれだけの喜びや悲しみが詰まっていたのだろうか。喜びよりも悲しみのほうが圧倒的に多くて、伝説の寮なんて言われているのだけれど、実は悲しみの寮で、フスマ一枚で仕切られているだけなので、男たちは声を押し殺してむせび泣くことしか出来ない。それがさらに悲しみを深重なものへとしてしまうのだろうと、ボクは、あの頃思っていた。

今でもあの頃のMさんの、表現できないような声を憶えていて、冬ソナの音楽が聞えてくると、あの頃のボクたちの朝を思い出して、やっぱり胸が苦しくなって、泣けてくるのだ。

ひとりぼっちのゴールデンウィーク
最初の休日は豊田市内まで買い物に行った。あの日のことをかなり鮮明に憶えていて、空の感じとか、街の乾いた空気とか、そしてやはりうつむき加減のボクのことなんかも、たまに思い出すときがあるんだ。好きになれなかった街だったし、今でもその気持ちは変わっていなくて、あの起伏のない風景がいっそう温もりを奪っていて、「砂漠」を感じさせるんだ。

田中和風寮C室

豊田市のジャスコがあるあたりにはダイソーなんてのがあって、そことか文房具屋とか、ついでに松坂屋に行った。通勤仕事用の財布なんかを買った。初めての街を歩くと、距離よりも長く歩いたように感じる。それは知らないという不安が距離感覚を麻痺させているのだろうと考えている。知らない街に対して持つ期待みたいなものはなかったし、それを感じさせるには何かが足りないように思っていた。

その後何度も電車に乗って、あるいは自転車で豊田市街地や矢作川沿いの道を散策したのだけれど、最後までその足りないものを感じたままで、そうして乾いた感触のままだった。

ゴールデンウィーク間近だった。工場でもバスの中でも連休中のことが合言葉のように語られていたし、どことなく、それはボクが感じただけなのかもしれないが、期間従業員の顔も明るかった頃のように憶えている。通勤バスから見える田んぼには植えられたばかりの稲苗の若緑色が眩しい頃でもあった。

同じ部屋のMさんもTさんも帰省するということで、豊田ICからの高速バスのことなんかをTさんがMさんに質問していた。Tさんは、ボクよりも少し前に入社した30代後半の人だった。身体の大きさとは反対に、声は小さくて聞き取りにくかった。口の開け方が悪いように思ったし、それはもう身体に染み付いた癖みたいなもので、本人に自覚症状があったところでもうどうにもならないようにも感じた。それが子供っぽいということに受け取られていたのかもしれないと、思ったし、実際、初めて故郷を離れて生活しているのではないかと思えるような感じもした。

連休前の最終日、金曜日は一直で、Mさんはその日のうちに高速バスに乗って帰省してしまった。Tさんも同じ地方出身だったのだけれど、その日は帰らないで、そしてなぜだか次の日も帰らないで、二日後の朝にやはり高速バスに乗って帰って行った。二日後という理由が分からなかったし、日曜日に実家に着くということに、とても重大な意味があるとも思えなかったので、ボクもその理由を聞くこともしなかった。

Tさんが帰るとボクはあの田中和風寮通路側のA室に独りぼっちになった。それでも寂しいとか、怖いとかいう感じはしなくて、やっとひとりになれたという開放感があった。それでもいつもの同じような生活だったんだけれど。

朝は起きたい時間に起きて、何をするわけでもなくて時間を持て余していた。寮に残っている人もいたのだけれど、帰省している人のほうが多くて、やはりいつもと違って静かな田中和風寮だった。みんなどことなく鈍よりした顔つきだったし、同じように一日をどうやって過すかということが重大事のようだった。

連休中の寮は悲しさや寂しさで溢れているようだった。ボクは違うといっても、他人から見たら、やはり寂しそうな感じだったのだろうか、なんて考えているんだ。

失業、引越し、期間工、そしてゴールデンウィークまでの2ヶ月間がとてつもなく長く感じたのも確かなのだけれど、あの頃のボクたちにはまだ明日という夢みたいなものがあって、それは就職についてもそうなんだけれど、期間従業員として半年働いて、失業保険を受給する間に就職できるだろう、なんて思っていた頃だったので、まだ確かに“甘い”未来はあったのだけれど。

ボクにとっての失業ってのいうのは、何も悲しいものでもなくて、やっと自分らしく生きることが出来るかなあ、なんて少しだけ楽しいものでもあったし、明日というのがハッキリと見えていた頃だったんだ。そしてなによりも、そこまでを短時間にこなしてきた自分への自信が、まだまだ残っていた頃だったように思う。

だから、独りぼっちだったとしても、そんなに悲しくも寂しくもないひとりのゴールデンウィークだったんだ。パソコンもカメラも持っていってなかったのだけれど、ボクには今よりももっとハッキリと明日を見ることが出来たし、見えている方向へと時間を過せばいいだけのような、そんな簡単な毎日だったように思う。まだトヨタに来てひと月も過ぎていなかったということもあったのだろうけれど。
さよなら田中和風寮
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか
(マタイ27・46)



そしてまた春がやってきた。2004年、トヨタの街に初めて来た年、時間は哀しいほどゆっくりと流れていて、花びらはその哀しみの涙に接められて散ることができないでいた。その11階の建物はボクにとってはゴルゴタの丘のように思えた。周囲の風景とは隔絶した風貌は乾いているのだけれどいつも黴臭くて墓石の輝きを放っていた。ボクたちはそこに夢とか希望なんてコトバを見出すことなんか出来ずに、ただ沈黙の中に自らの存在を確認する作業を繰り返していた。

あの2004年のことを書こうと思っている。
あの年のこと。
ボクが住んでいたあの街のことと、そして、あのビルでの出来事。ボクがこのブログを始めるきっかけとなった出来事が起きた日々のこと。ボクがまだいまより3歳若くて、そしてボクがまだ今よりももう少し夢を語れた頃、そして辛く悲しい思い出の頃。

まだ感触として残っている、あの夏のこと。肌に少しだけマトワリつくような空気。ちょうど、この街の風のようなカンジの感触、それが残っていて、ボクを、悲しくさせる。いまでも夢に出てくるTさんと最後に会った日や、Kくんの声を最後に聞いた日、Mさんが泣いていた日々。あの頃、ボクたちは猛暑といわれた夏をどう越すかということよりも、やはりベルトコンベアで運ばれるような日々を送っていて、やはりプラスチックのような街で、少し生きることの意味をなくしていて、幸せなん言葉を使うことを、やっぱり少しだけ怖がっていて、その日の無事終わることを、ひたすら祈るような日々を送っていたんだ。

田中和風寮の思い出 | トヨタ期間従業員に行こう

あの年と、11階建てのビルはボクたちの記憶の中になにかを残している。それは後遺症と言っていいのかもしれない。3歳若かったボクはあれから9歳年を重ねて、また同じ春を同じトヨタの街で送っている。同じ春を送っているのだけれど、もうあの時と同じように人生というものを考えることができないでいる。後遺症に悩まされながら生きている。

行方不明になったTさんは(自死したと噂されたのだけれど)どうなったんだろうか?ひっそりと退寮したKくんのその後の人生はうまくいったのだろうか?飛び降りた若者の魂はどこを彷徨っているのだろうか。


ボクたちのいた田中和風寮が取り壊されているそうだ。
最後に一度見に行けばよかったと思っている。ボクたちの何かが葬り去られた刑場、あるいは墓地。そして今もなお何かが彷徨い続けている聖地。

Tさんを探しにやって来た母親の声が今でも耳に残っている。「冬のソナタ」に涙をながしていたMさんのすすり泣きの音が聞こえてくる。そしてボクのため息がここいら中に張り付いている。

田中和風寮取り壊し
寮の取り壊し - toyotadeikiru Jimdoページ
日本共産党トヨタ自動車委員会からの画像です
公衆電話と五月の枯葉
まだ公衆電話を必要としていた頃には、こんなアパート界隈には10分も歩けば必ず1台は公衆電話があって、夜にもなると誰かがその電話にしがみついていた。並ぶのも悪い気がして、部屋に戻って10分ぐらいして出直しても、まだ会話中なんてことも度々あったとしても、それはまた自分の姿でもあったので、誰も咎めるなんてことをしなくて、礼儀正しく終わるのを待っていた、そんな時代もあった。

Yさんと不埒な恋に落ちていた頃にもボクは坂道を下ったところにあった公衆電話に行くことが日課になっていた。10分ぐらいの会話のために小一時間使っていた。今考えると、恐ろしく効率の悪い生き方をしていた。それでもその瞬間をこうして思い出せるのだから、一回の電話がずいぶんと質量を持っていた時代だった。

公衆電話でボクたちは別れを告げた。それはあらかじめ分かっていたことで、「別れ」というよりも「旅立ち」と言った方がいいような、そんな別れだった。その後ボクは一度だけYさんにその公衆電話から電話をかけた。「気をつけて帰って来てね」というのが彼女の最後の言葉だった。もう20年以上前の話だ。

ホッチキスと初めて話した寮ロビーの公衆電話、名古屋駅の公衆電話、そんなに遠くない過去の出来事の中にも存在する。そしてやっぱりずいぶんと質量を持っている。「会話×場所」という奥行きを持って記憶している。

田中和風寮前の公衆電話だって同じで、あの2004年のこんな蒸し暑いTさんが失踪した夜、ボクはその公衆電話で思いつくまま誰とはなく電話をした。ボクは不安の中にあった。そしてボクは何かに繋がっていたかった。そうしなければボクの何かが失われそうに思えた。公衆電話のガラスに写しだされるボク自身の姿にボクは安心した。

田中和風寮は撤去された。でもあの公衆電話は残っていた。何百人という期間従業員が利用しただろうあの電話ボックスはそのまま残されていた。なんだかとても不思議に思えた。捨て猫のような感じがした。鳴き声が聞こえてきそうにも思えた。

季節外れの枯葉がそこいらに散らばっていた。襖の向こうからTさんのひとり言やMさんのすすり泣き、冬ソナのテーマソングが聞こえてきた。明け方にひっそりと辞めていったKくんの足音が聞こえてきた。あの年の5月もそこいらに散らばっていた。

田中和風寮前の公衆電話
田中和風寮前の公衆電話

哀しみを散り落としての若葉かな(笠山)

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