トヨタ期間従業員に行こう

トヨタ自動車期間従業員であった筆者が期間工、派遣社員、非正規社員についてや雇用の問題そして1年間にわたる失業生活、その後のタクシー運転手としての日々なんかをぬるめに書いています。

仕事さがし
ハローワークのカフェでいつものハロワラテを飲む。気温の上昇とともにアイスラテが売れているのだろうけれど、ボクはまだホットで飲んでいる。1杯50円。

いつもいるおじさんのひとりは、近所のオンボロアパートの住人なんだけれど、その失業者の輪の中にいて主のように振舞っている。というかそのおじさんも無職だから毎日そこにいるのだろうけれど、もう就職を諦めているのか、なにか不労収入でもあるのか、ハロワのロビーと玄関が彼の定位置になっている。検索する姿も就職相談をしているところも目撃したことがない。ハロワ七不思議のひとつなのだ。

そのおじさんたちの集団はたまに酒臭い。
ロビーの床に座り込んでいる人たちもいて、今すぐにでも宴会が始まりそうな予感はたっぷりとしている。たまに警備員の人が通るのだけれど、注意することもなく、逆に「失業者」という警棒を振りかざして威圧しているようで、そうなるとどちらが警備員かわらかない。ハロワ警備という仮想仕事をしているのかもしれない。なんだか暴動前夜の気配もするときがある。

そしてたまに女の人に声をかけている。10人に1人、いやもっと確率が低いかもしれないけれど、その輪の中に女性がいるときがある。金曜日がそうだったのだけれど、ハロワカフェの紙コップをその女性(おばさん)の下半身に押し付けるという、大セクハラ大会を行っていた。女性(おばさん)もいちおう嫌がってはいたものの、「ウヒャヒャヒャ〜」なんて、文明の埒外にある部族を連想させる奇声を上げて、まんざらではないようだった。

ボクの知り合いの女性は最近のハロワは「怖い」と言って、遠回りしているらしい。ハロワカフェではなくてハロワスラムのように混沌とした空間がポツンとそこに存在している、とも言えなくもない。ボクはそういった光景は好きだ。深夜のボンベイセントラル駅を思い出すことだって、そこだと簡単に出来る。それほどの異文化空間がポツンと展開しているのだ。

きっと雨の日も風の日も、失業者仲間にあうために自転車で、バスで、歩いて、ハロワに来ているのだろう。そして仲間と語り合うためにハロワカフェでコーヒーを飲んでいるのだろうと思う。毎日毎日。ボクも、ハロワに行くと落ち着く。そういった「もう良いじゃん、仕事なんてどうにかなるさ、Let it Be」なんて人たちを見ると「だよね」と同意してしまう。ボクも実はその輪の中にいる人なのだ。きっと。そして朝からサンマの缶詰をあてに焼酎を2合ほど飲んで、ハロワの床に寝転がっていたいと思う。

あのおじさんたちがいて、ハロワの空気が中和されているのだろうと思う。あの人たちがいなかったら、なんだかみんなの目がギラギラして、「ガルルー、仕事くれー、ガルルー」と求職中毒患者の禁断症状で凶暴になった失業者が街中に溢れかえって、犯罪が多発しているのかもしれない。

大セクハラ大会どころではなくて、実際に事件が起きているのかもしれない。ユルい場所がないと、人は息苦しくなるものだ。リクルート姿の求職者ばかりがハロワにいたら、きっと絶望する人は今の数倍になっているようにも思う。

そう考えると、あのおじさんたちは…、そっか、ハロワのまわし者?ってことはないか…。

乗るんだよ 電車によ
乗るんだよ 電車によ
雨の日も風の日も
仕事にありつきたいから

飲むんだよ にがいコーヒーをよ
飲むんだよ にがいコーヒーをよ
履歴書を書く為に
仕事にありつきたいから

新聞を見たよ 新聞だって見たよ
電話だってかけたよ
仕事にありつきたいから
ずい分 歩いたよ
毎日 毎日ね
いろんな奴にもあったよ
仕事にありつきたいから

「仕事さがし」高田渡作詞

仕事さがし 高田渡 歌詞情報 - goo 音楽



高田渡B00005GF5R


傷ついた鳩のいた近くの公園で咲いていた花
近くの公園に咲いていた花。トリミングなしなのだけれど、右側の花にピントを合わせるのってけっこう難しい作業だったりする。なんでもない写真なんだけれどね。普通はピントを合わせておいてトリミングして構図を決めるのだろうなあ、なんて思いながら…。

精神的に疲れてしまっている。
少し凶暴になってしまう。凶暴というか自暴自棄というか厭世的というか、そういうものが人を傷つける方向に向かう。

「オレ何やってんだろう」なんてことになったりもする。面倒くさいね、人生なんて。

人は恋をする。
とても普通なことだと思う。たとえ結婚していても恋はするのだろうと思うし、そういう人をたくさん見てきた。

結婚と恋は別なのだろうね。

恋して結婚する、のではない、ということが最近とても分かってきた。ボクたちは、普通は、恋をして結婚をするものだと思っていたのだ。でも、どういうわけか、最近は動物本来の行動をとるようになってきた。どういうことかというと、結婚のために恋をするのだ。

「子孫繁栄」というのが人、いや、生物としての枠組みなのだ。とすると「子孫」「結婚」「恋愛」という順番になる。要するに子供を生むために恋をするのだ。そのために花は美しく咲き香る、鳥はさえずり舞う、野獣はより強く早く走る、あるものはより大きく、そしてあるものはより小さく、全ての進化はその一点、子孫繁栄というために行われた。

そう考えると最近の流行も分かるようになった。要は素晴らしい種を求めているということなのだ。より素晴らしい種を求めるということも本能なのだから誰がなんと言おうと否定はされない。生物は常に偏差値の中に存在しているのだ。

だが、その結婚という種の保存という行為を行った相手が、とても素晴らしい種であったとしても、それはとても素晴らしい恋人とは言えないのだろうと思うのだ。そういう道順を通らない人だって多い。「恋愛」「結婚」「子孫」という人間らしい順番を選択する人も多い。

それが人なのだろうし。人間らしいのだから。だって「感情」があるのだからね。

いくつになっても恋をする。
あるいは結婚という生物の目的とはかけ離れた位置にあって恋をする。
思いつくまま: 妄想

夜勤の仕事帰りにバスに揺られながら見るともなしに窓の外を眺めていると、一際明るい光を放つそのレストランに目が行く。早朝の4時というのに、いつでも店内にはチラホラとお客の姿が見える。

昨日の朝、今日の朝、ちょっと気になる姿があった。

70歳前後くらいの年配の男性と女性が、たぶん同じ場所に座って食事をしていた。

「ご夫婦なんだろうなぁ」
「こんな早朝にファミレスで食事……」


どうなんだろう?ふたりの関係は?

夫婦?
恋人?
兄妹?
親戚?
知人?
ゆきずり?

Fujitaさんは「ご夫婦なんだろうなぁ」と妄想なさったようだけれど、ボクはね、きっと恋人同士で、もう何十年もそんな関係を続けているのだろうと思っている。

年金の出る15日の次の朝に二ヶ月に一度のデートをしているのかもしれない、と思った。早朝、例えば散歩に行くといって、あるいは、その日のために毎日早起きして散歩しているのかもしれない、と思った。

夫婦ではないのだろう、きっと…。
女性は結婚しているのだろう。だから早朝なのだ。女性だけが結婚している。男性はもう何十年もそんな関係を受け入れてきた。結婚はできなかったけれど、彼女を愛することはできたのだろう。

そういう恋もあるだろう。そういう結婚もあるだろう。と思う。

人は恋をする。
それはとても自然なことなのだろう。「出会いがない」ということはないと思う。普通に手を繋ぎたいなあとか、話してみたいなあ、なんて感情は起きると思うのだけれど。

そして偶数月の15日の次の日に、早朝のファミレスで朝を待つことだけを生きがいにすることもあるだろうと思った。そしてその3時間ほどの時間に語りつくせない話をする。その話のために毎日を過ごすということもあるだろうと思った。

なんだかそう思うと「いい話」だなあ、なんて読みました。
ラブホの帰りだったとしても、それはそれでいい話だし、ね。
駆落ちということはないだろうし…。
これからは、そういう光景を見ることが増えるかもしれませんね。きっと。


公園の野良猫
エコポイント交換商品リストを見て考えたこと
エコとは、やっぱり消費かあ…。
エコポイント交換商品情報 | 交換商品一覧 | グリーン家電普及促進事業 エコポイント

公共交通機関カードというのが一番上に記載されていて、これは例のETC割引で不平等感が噴出したところへの配慮だろうと思うと、やっぱりエコだ環境だと言っても利益、内需拡大、大量生産大量消費、市場主義、なんてところに帰着するのだなあ、なんて考えている。

要するに、エコが非エコを生じる、ということなんだ。エコノミーには効果があって、エコロジーには効果なし。そえれでもガソリン代割引券とか高速道路通行権なんてのとタッグを組むなんて露骨なことはしなかったと、というか、そのへんが狡猾なのだけれど。

あれやこれやと消費へと国民は誘導させられて、忙しく移動して食って寝て買って、というエコパッケージツアーに強制参加させられているようで、イメージすると微笑ましい。それが景気好転へ繋がるのだから、とやかく言うことは出来ない状況でもあるのだけれど。昨日の大田総理で半切れになった大村議員のようにね。「景気がよくなることが悪いんですか!!!」とか「雇用対策なんです!!!」なんて言われれば、もう黙ってしまうしかないのだろうし。

エコ替えなんてのも、最近はこども店長なんて目線で、これまた「子供のためになるのが悪いんですか!!!」なんて手法で、「アイス1000本分ぐらいの減税になる」ってことを子供に言わせているし…。「これから目線」というのは、いかに個人の利益に寄与しているかを説きながら、実はそういった自由を統制しようとするものなのかもしれない。

要するに弱者保護を大義名分にしたファッショ的エコ(ロジー/ノミー)政策に転換するのだろうか、と考えている。

それでもハロワの混雑が解消されて、生活保護需給者が少なくなり、ホームレスの人たちが屋根のあるところに住むことが出来るようになるということは、確かに最重要課題で、それなしには国家は維持できないと思うのだ。そう思うと13兆だろうが26兆だろうが、どんだけ借金が増えようと将来につけをまわそうと、お金を使う人が良い政治家に思えてくる。

エコ消費税にして20%とか25%なんてかければ良いと思っている。そうなったところで貧乏人は全体の消費が少ないのだから、そんなに関係ないだから。例えばボクの場合だと、住居、光熱費が非課税になればその差はわずか1500円なんだから、関係ないと思っている。光熱費にかけてもらってもいいけれど。それでも数百円の違いだからね。

エコエコ言いながら、結局は消費拡大ということなんだから…。ま、それも経済のためにはしかたないのだろうね…。そう、しかたないのだよ。

3代目プリウス 受注状況について|トヨタ自動車:ニュースリリース

3代目プリウスの受注台数は、5月18日の発売から約1ヶ月にあたる6月17日時点で約180,000台と、大変好調な立ち上がりとなっている。


彦根 ひこにゃんキャンディー
冥福
冥土とはどこにあるのだろうか。
死後、死者が彷徨う場所。三途の川もそこにあるというのだけれど、誰も知らない。

冥福を祈るとは、その冥土での幸福を祈るということらしいのだけれど、人は死んでもさらに彷徨うのだろうか。そして人々に祈られつつ無事に三途の川を渡り終え次の生への道を歩むのだろうか。

此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。一般的に仏教の概念の1つと思われがちだが、実際は仏教に民間信仰が多分に混じって生まれた概念である。
三途川 - Wikipedia


仏教の概念にないものが、仏教儀式の中で語られる。

ボクの実家は浄土真宗だったので「ご冥福をお祈りします」と言わなかったと思う。そしてボクも使わなかった。
浄土真宗 本願寺派 河久保同行の部屋:冥福について

◎ 仏教でも、浄土真宗でも、故人の冥福を祈りません。
既にご承知と思いますが、冥福とは、「冥土(冥途)で幸福になる」と言う意味です。そして、この「冥土(冥途)」とは、仏教以外のものの考え方なのです。
つまり、ご遺族に「ご冥福をお祈りします」とご挨拶されることは、「亡くなられた方は、冥土(冥途)へ迷い込んだ」と言うことを意味し、「お浄土の故人を侮辱する無責任で心ない表現」と言えます。

とボクも教えられてきた。

冥土はこの世にあるのだし。亡くなれば極楽浄土に行くに決まっているのだから。

ボクは「さみしくなりましたね」と言うし、書く。親にそう教えられた。初めてひとりで葬式に行った時のこと。「なんて言えばいい?」と聞いた時にそう教えられた。

冥土を彷徨い、そして死後もなお冥土に迷い込むとなると、人は彷徨うために存在するのかと思う。そうだろうけれど、どこかに安息の日や場所があるに決まっている。三途の川の向こう岸ではなくて、そこを渡らないと分からないという仕組みではなくて。

カメラが売れて、そうしてそんなことを考えている。雨のせいもある。カメラのない日々がこれから続くことになる。何かいっぺんにいろいろな物がここからなくなったように感じる。想い出とかごっそりと宅急便とともに行ってしまったように感じる。

何もかもを少しずつ失くしている。
何かを得ることもあるだろうけれど、失うもののほうが絶対的に多くて、最後にはやっぱり40リットルのザックひとつでこの世を彷徨うのだろうか、と思っている。

「さみしくなりましたね、オレ」


近くの公園で写した花
1Q94
村上春樹さんの「1Q84」ではない。
#ちょっと真似てみたけれど…。

おととい昨日と63歳の派遣社員の男性の自殺について考えていて、なんだかやっぱりこの身の将来のことを考えると気持ちが落ち込む。希望みたいなものはないのだしね。これが20代とか30代前半なんてのならば、まだ何かに繋がる希望もあるのだろうけれど。

48歳の時に工場の街に、その男性がやって来たのが1994年。15年前のことでした。48歳、希望はあったのでしょうか。ひとりで派遣会社の寮に住む、家族もいなければ、知り合いもいない、贅沢するわけでもなければ、車さえ持っていない、彼にとって働くとは一体どういうことだったのでしょうか。

そのあたりに、多くの人が集まっている。非正規という人たち。小さい範囲の中にいて、少しバランスを崩すと転げ落ちる場所。

1993年
4月 「納菜の儀」皇太子・浩宮徳仁さまと雅子さまが婚約
8月 細川護煕 首相内閣。土井たか子が初の女性衆議院議長。九州で集中豪雨が発生
12月 田中角栄が死去

1994年
1月 ロサンゼルス大地震が発生
6月 長野県松本サリン事件。村山富市 首相内閣が始まる
7月 金日成主席が心臓病のため死去
9月 関西国際空港が開港
10月 北海道東方沖地震が発生
12月 三陸はるか沖地震が発生

1995年
1月 阪神淡路大震災が発生
2月 地下鉄サリン事件

Memoroca参照

バブルがはじけて、1994年から、この国が少しずつ軌道修正できない方向に転換していったのでしょうね。そしてそのまた3年後から自殺者が3万人を越えて、今日まで11年連続で減少することがないというもの、1994年という年がひとつのポイントになるのだろうと思っています。

すでに歴史学者や経済学者によって考察されているのでしょうが…。

1987年の横枕さんの絵



We are the World を歌っていた頃
ボクがボランティアから遠ざかってしまった理由は、例えば毎日のようにアフリカ難民のこと、どうやったら彼らを救えるかということを考えていたとしても、隣にいる、ボクの知り合いを救えなければ、それはとても嘘っぱちなことのように感じたからだ。

ボクの極親しい人が困っているというのに、まさか順序をつけて自分がやりたいボランティアということを優先させて、隣にいる人を見殺しにする、ということこそ反ボランティアスピリッツ、反人道的に思えたからだ。そしてそれはごく普通にほとんどの人がそう考えるのだろうと思う。

自分の利益を優先させてしまったら、それはボランティアではなくなるのだ。そう思った。まだ若かったし、そういった青臭い意見、書生論みたいなものが、とにかくボクの心の在り方だった。

そこに哀しみがあれば、一緒に涙を流してみたいと思った。そこに苦しみがあれば、一緒に痛みを分かち合いたいと思ったこともあった。そしてそうしてきた。

こうしてそんな日々を振り返ると、そんな考え方、そんな理論は、無意味なことで、ボクにとってはそういった「人のため」と思って生きてきた十数年は無駄な時間だったように思う。今のボクの状況がそういう思考にさせてしまうとしても、今の状況こそが全てなのだから…。

うまく生きることが出来なかったと思っている。例えばそういう経験を利用する人も多い。それよりも、人のことよりも自分のことを優先させる人も多いだろうし。ただ、ボクは、ボクがやってきたことを後悔しているというのではなくて、少しだけタイミングが悪かっただけだし、やっぱり努力不足という自己責任論に帰納するように考える。

要するに甘かったのだ。一生懸命するということは、時として将来を見えなくする。常に少し裏切りながら、愛しているという言葉を繰り返すほうがうまくゆくということだ。例えば、へそくりを貯めて熟年離婚するような。

隣人よりは自分の夢を追いかけたほうが良いのだろうし、そしてもしそれで失敗したとしても納得のゆく生き方になるのだろうと思う。会社のためとか人のためとか考える時は、常に自己利益とセットに考えないと、献身的すぎると結局最後は燃え尽きてしまうということ。好きな人に横領した金を貢ぐようなものなのかもしれない、と思う。

隣の人のことを考えることは難しい。例えばテレビの向こうで流されていることは簡単にイメージできたとしても、隣に住むオジさんが孤独死することには無頓着であったりする。そして何日も気付かなかったりする。例えば、24時間テレビの募金は毎年するのに、公園でホームレスの人がうるさいと通報したりする。

ボクたちはその事実をスクリーンからではないと実感できなくなっているのかもしれない。あるいは、自分の感覚ではなくて、マスコミを通してではないとうまく神経が機能しない状況になっているのかもしれないと思う。ボランティア不在の時代なのかもしれないとも思う。

あの頃、マイケル・ジャクソンやスティーヴィー・ワンダーが「We are the World」を歌っていた。そしてボクは、そのことに随分とうろたえた。ボクが何もできていないことを考えていた。そんなことは普通は考えないくていいことだったのだとしても。あの100万人規模のstarvationの事実を突きつけられて平気でいられるはずがないと思った。隣で人が死んでいるのだから。ボクはそうだったのだ。

今、この国でも100万人もの失業者がいて、全てが飢餓状態にないとしても、少しだけ状況が悪くなればそこに陥ってしまう人々が溢れている。たぶん、普通に生きている人たちにとっては、そのことはとても想像できないことだったりするのだろう。ハローワークの前の道路が混んでいるということぐらいで、死体が道路に転がっているわけでもないのだから。

ホームレスというのは難民で、この国だから餓死しなくて済んでいるということなのだ。飢餓状態にあるということは同じなのだ。格差が難民を救っている、ということなのかもしれない。だから都会に難民は行く。豊かな人のすぐそばで難民が暮らしているという状況なのだ。そしてその難民たちは礼儀正しく、夜が明けるとどこかへ消えてゆく。格差の中にあっても「迷惑」ということを考えている。

そういう現実が毎日毎日繰り返されているのに、誰ひとり「We are the World」を歌おうとしない。あの時、Band Aidが結成されたように、そしてアフリカを救おうとしたボランティアスピリッツがアメリカで起こったように、この国の人たちにはそれがないのだろうか。同胞が苦しんでいるというのに。

そして全ての財産を失わなければ難民として認定されない、いわゆる生活保護も受給できない状況なのだ。そしてなおも肥え太って、ダイエットをするという、拡大の病におかされている。

マイケル・ジャクソンが死んで、そしてあの頃の映像が流れる。アーティストとしても、そしてノーベル平和賞に2度もノミネートされた生き方も、素晴らしかったと思う。この国には政治的な活動としての平和賞受賞者は出るかもしれないけれど、文化的活動として、ミュージシャンが平和賞にノミネートされるなんてことはないのだろうと、思った。まして企業なんてのはないのだろうし、その企業がパトロンであるテレビに出る人たちには無縁なことなのだろうと、マイケルの訃報を聞きながら考えた。

さよならマイケル。

We are the World

名鉄 豊明駅

誰かをあてになどしてはダメです
たまに、こんな独りの夜は、といってもたいがい独りの夜だったりするのだけれど、どこかに出かけたいと思う。近くに知り合いでもいれば取りとめもない話をして酒を飲んだりするのだろうけれど、そういう人もいない今の状況では、ただ沈鬱として夜をやり過ごそうとして、もがいていたりする。

少し散歩に出かける。駅の通路にはもうこれ以上折り畳めないといった窮屈さで身体を折り曲げて、柱と壁の間のちょうど人が半分いられるほどの空間に、寝ている人が、その柱の本数分いる。ゴロリと転がっている。まるで死体のように。呼吸する度に胸の辺りが僅かに動く。その動きこそがこの世とその身体を繋ぎとめている唯一の証。生命とはその衣服の動きほどの範囲でしかない。

ボクは救われたいと思っていた。宗教でも良かった。例えば、あの頃のように新興宗教の勧誘者がそこいらにいて、グルの素晴らしさを説いていたとしたら、迷うことなくそれにすがったかもしれないと思った。

そういった経験もあって、10代の頃、日曜の教会に通ったこともあった。昼食のカレーライスや、ボクを誘ってくれた綺麗なお姉さんに会えるということもだけれど、結局は何かにすがりたいという気持ちがかなりあった。20代になってからは臨済宗のお寺に行くこともあったし、そこの住職と話したり泊めていただいたりしたこともあった。その時も何かにすがっていたいと思っていた。

例えば、ドライブに行くような感じで、ボクは教会やお寺に行っていた。

皮膚と衣服の間での蠢きでしかないような生命の範囲からどうにかして抜け出したいと思う感覚、そのようなものがいつもボクにはあった。そして今もある。

こうして少し湿度が高くなる夜になると、どこかに出かけたいと思う。ここから抜け出したいと思う。それは明け方までの数時間でも良いのだけれど。ただ、ここにこうして留まっていても、よほどのことがなければ動かないのだからどうしようもない。

夜中に散歩に行くのが精一杯の日々…。いったい、これが正常なことなのか、これが生きていると言う蠢きなのか、ボクには分からないでいる。

誰かが、きっと、ボクを外に連れ出してくれると考えていたりする。その誰かが誰なのかは分からないし、その人の出現が今なのか、あるいは未来なのかも分からないとしても、手を差し伸べてくれる人が出現するように思ったりもする。

ボクはひとりで立ち上がれないほどになってしまっているのだろうか。と、そいういうこともセットで考える。誰かに頼らなければならないほど、身体も心も疲弊しきっていて、その相手の身体にしがみつくようにして、バランスを取って、そうして、例えば助手席に乗るように、ここから出発しなければならないのだろうか。

いや、誰かをあてにしてはダメなんだろうと思う。きっと、その誰かを頼るとボクは更にダメージを受けるように思う。そういうことは過去にも何度もあったのだし。

ボクは、何があろうと、きっと、自力で立ち上がって、自力で全てを準備し、行動しなければならないと思うんだ。誰に相談することなく、あるいは、ここで弱音を吐くこともなく、そしてこのようなことを書くこともなく、ただひたすらに「強く強く」と念じながら、ガツガツと歩かなければならないのだろうと思う。

ボクはボクを救えないでいるのだ。当たり前のようなのだけれど。ボクがボクをここから連れ出すのは、無理なのだ。そしてそうしてくれる人もいない今としては、ボクはここにいることしか出来ないでいる。それはまるで柱と壁の間にへばり着いて寝ているあの人たちのようでもあり、こうして生きているふりはしているけれど、皮膚と衣服の範囲での生命であって、まるで死体のような日々を送っていると思う。

だからどうしたということで、きっとボクの性格がそういった不幸を招いているのだろうと思う。も少し、ほんの少し、弱くなれたらと思ったりもする。そして「助けて」というメッセージを送ることが出来たらと思ったりする。

と、思いつくままに書いてみた。そんな夜なのだ。そしてまた日曜日。特売卵の日だったりする。その卵10個分が一週間だったり。さてと…。

南極観測船ふじにて
ロス疑惑
セブンイレブンに対して弁当類見切り販売に対する排除措置命令が出た問題について考えてみた。
オーナーさんたちは商品廃棄によるロスチャージやチャンスロスという二つのロスに怯えているのだろう。要するに、商品を置かなければ売れない、置き過ぎると廃棄になるということ。もっと言えば、廃棄になるぐらい置かないと売れないと言う売り場の法則みたいなものが小売販売にはあるのだろうと思う。

どこのコンビニ、スーパーを見ても棚を空けているというところを見たことがないし、とりあえず何かを置いて商品が溢れているという空間を作り上げている。とりあえずではなくて、例えばレジ横に和菓子を置いたり、カードを置いたり、弁当の棚にバナナやカップ味噌汁を置いたり、ありとあらゆる「置く」とか「詰める」という売場理論が展開されている。見ていると面白い。

とにかくあの30坪ほどの売場に4000アイテムとかそれ以上のものを詰込むということがコンビニの美学なのだ。空けないというのは、商品だけではなくて時間もそうで、1分たりとも閉店時間がない24時間365日完全フル操業の状態なのだから、まさに大量生産大量消費のシンボルとして全国に数万店舗というこれまた大量生産が行われる。そしてスクラップアンドビルド、生産と廃棄を繰り返して、成長しているのだから、市場経済の申し子と言ってもいい存在なのだ。

「チャンスロス(機会損失)」は、どうも強迫観念として働いているように思う。別に売り切り御免でもいいのではないかと思う。(そうなると隣の店に客を取られるなんてことになるらしいのだけれど)とにかく商品を置いておかないとそのロスが発生するから、店側の不利益になりますよ、という空理というか、仮説というか。実際には代替品を買う場合もあるだろうし、誰もそのチャンスロスの損害額なんてのは確定できない。「たられば」の話なのだから。

2つのロス、廃棄ロスとチャンスロスは二律背反、矛盾しているようであっても、結局は同じところで繋がっている。商品がなければ売れないのだから。簡単な理論なんだけれど、本部やその強迫観念は「いつでも欲しい時に欲しいだけ」なんてこれまたコンビニの美学を説く。それが存在意義だ、みたいなことを言うのだろう。

廃棄ロスは発注という技術や戦略に関わってくるのだけれど、毎日天気予報を分析して、地域の行事、トヨタカレンダーを気にしながら発注したとしても、客がたまたま「今日はラーメン屋にランチを食べに行くか」ということを予測するなんてことは、神にもできないことなのだから、正解はないし100点満点の発注なんてものはない。チャンスロスと廃棄ロスは常につきまとっていて、どこかで妥協しなければならないのだろうと思う。

さらにその廃棄ロスについては客側にも問題があって、新しいもの、常に棚の奥にある新しい商品から買おうとすることから起きる。弁当や牛乳だけではなくて、よく見ていると週刊誌、ジャンプまでも下のほうから買おうとするから、古いものは売れ残る。新しいことはいいことなのだから。女房と畳もだけれど。そういう消費行動になってしまっているのだ。店側の損失やロスなんてことを考えるわけがない。それを防ぐために配送の回数を増やしたり、ポスレジによる発注の精度を上げようとしたりしたとしても、やっぱり人の気持ちは秋の空なのだから、完全に見抜くことは出来ない。シーチキンマヨネーズを買おうとコンビニにやって来たけれど、気が変わって鮭おにぎりにする、なんてことはよくあることなのだから。

廃棄ロスとチャンスロスの狭間で発注者(要するに店舗のオーナー)は苦悩する。そして「見切り販売」という方法でそれをできるだけ少なくしようとする。そしてそれはあらゆる小売店で行われる。自動車販売店でも行われる。売れないなら値段を下げる、というのも、これまた販売理論なのだ。そしてさらに売れなければ値を下げる。経済とはそういうものなのだ。

ロスは怖い。廃棄ロスや万引きロスによって閉店に追い込まれる店舗もあるのだから。

その2つのロスのほかに、日本経済全体の損失というロスもある。大量生産大量消費・大量廃棄のほうがこの国にとってはロスが少ないのだろう。自動車も同じで大量生産大量消費、そして大量廃棄のほうがメーカーにとっては都合が良い。賞味期限切れで廃棄ロスになろうが、万引きによりロスになろうが、交通事故によって廃車ロスになろうが、商品が消えてなくなることは良いことなのだ。そういった生産と消費のシステムこそがこの国を支えてきたロス疑惑なのだから。

そして今なお廃棄を国全体で推奨してきているではないか。エコ替とか、エコポイントとか。ふん。

要するに全体がコンビニの売場理論で動いているということなのだ。何もセブンイレブンだけが悪いのではなくて、この国の全てが悪いのだ。消費者も新しいものを選んでおいて「もったいない」とか言うこと自体矛盾してるだろうし。そしてそのために配送回数が増えて、排気ガスをばら撒く、そしてコンビニ、小売関係労働者の労働条件は悪くなる一方なのだ。(いや、逆にそういったことが雇用を生むのだけれど)

ボクは、そんなことよりも、非正規として雇用保険も労災も社会保険もなにもない状況で働いているコンビニ労働者こそが、この国にとってのチャンスロスだと思うのだ。店側はそのことについて闘ってほしいと思う。本部に対してそういった人々や自らの社会保険の加入をしてもらうことのほうが、優先されてもいいと思うのだ。

その国民ロスについての排除命令はでないのか、と思ったりする。結局は誰が得するかということだけのようなもので、一番その損失をこうむっているのはコンビニ店員のように思う。廃棄がでなくなったら、捨て弁を食べられなくなるのだし…。それがとにかく店員たちにとっては喫緊した問題なのだ。

廃棄ロスが少なくなって誰が得をするか、結局オーナーだけではないかと思ったりもする。本部も弁当メーカーも損をして、店員は弁当を食えなくなる。その見切り弁当を買う人は少し得をしたとしても、いつもあるわけではない。それどころか、商品自体が減少する傾向になると思う。廃棄が出ないということは、そういうことなのだ。在庫管理を考えれば良いだろう。バックオーダーばかり増えて、実際のものは売場からなくなる。

難しい問題である。やっぱりロス疑惑なのだなあ、なんて考えたりしている。それでも大量生産大量消費大量廃棄をしなければ、もうこの国自体が廃棄されるということなのだ。だから、がっちり発注して、売場を満タンにして、廃棄をじゃかすか出さないとダメなのだ。消費者も新しいものを下から奥から引っ張り出して買うべきなのだ。そんな見切り売りなんてことをしないで、本部が15%なんてせこい補填をしないで、原価分を補填して、ジャンジャンバリバリ軍艦マーチを流しながら廃棄しなければ、内需なんて拡大しない。もうそういう立ち居地にこの国はいるのだ。

それが「エコかえ」なんだから、なにか問題でも?

そばうどんチャンポン
そばうどんチャンポンみたいな問題で…。
(15時30分、少し加筆しました)
ロングテールからの供給過多経済、ロスは出るもんだよ
車がないと困ることがひとつだけある。

雨の日?
ではなくて、風の日でも雪の日でもない。天候に関してではなくて、距離でもなくて、米の問題なのだ。アメリカじゃないよ、米国ではなくて米穀の問題。

普通は5キロ入りよりも10キロ入りのほうが安い。だいたい2600円から3000円、ま、中には2100円なんてものがホームセンターとか激安店で売られていたりするのだけれど、それとて10キロ売りなのだ。5キロならば自転車で持ち帰ることもできるのだけれど、10キロになるとザックに入れて可能なことは可能なのだけれど、40リトルのザックで米を買いに行くなんてのは、なんだか少し恥ずかしかったりする。

ということもあって、だいたいはホッチキスに頼む。「あ、米なくなりそうだから」と電話する。そうするとそれぐらいの値段のものを買って配達してくれる。ところが今回は8キロ入りの袋だった。トップバリュー製品。

で、ボクのような自転車の人にとっての限界重量みたいなものが8キロだったりするのかなあ、なんて考えた。あるいは奥様たちが「10キロは重いからせめて8キロにして1キロあたりの値段は同じにしてください」という声が上がったのだろうか、と考えたり。4人家族で8キロが「なんか良い感じ」だったりするのかなあ、とか。きっと末広がりの「八」だから、とかとか…。

ということで、8キロ入りの米が届いた。1回の炊飯で4合を炊く。それを6つに分けて冷凍する。1食あたり4合分の6ということになる。0.667合ということだ。

米1合は150グラムなのでグラム100グラム/1食ということになる。とすると8キロだと80食分(35円/1食)になる。1日2食食べたとして40日分、うどん、パスタ、そばなんてものが入るから、結局は2ヶ月以上あるのだけれど。

と計算したり考えていたりして、結局、その8キロの意味とか意図とかは分からなかったのだけれど。きっとジャスコさんに聞くと「あ、あれは、アンケートを取りまして、そして一番多かった家族数4人というのを基本にして、導き出された8キロなんですよ」なんて答えてくれそうだけれど…。それかやっぱり自転車の最大積載重量ってのが8キロなのだろうか(と、それがボクの中では一番の有力候補なんだけれど、調べたら30キロとか)。

ジャスコのキャリーの最大積載重量が10キロで、10キロの米を載せるて他の商品が入れるとオーバーになってしまっていたので、8キロにした、とか。どうだろうか。というか、多くのキャリーの最大積載量は10キロで、暗黙の了解というか、オーバーしていることについて何の危機意識もなかったのだけれど、ジャスコが始めてそのタブーに挑戦してKYを行ったとか。というか、それならキャリーを改良するかなあ。最大積載量12キロとかに。

きっと、8キロには、ボクには考え付かないドラマがあるのだろうと思っている。その2キロを減らすことでCO2の排出量が劇的に減るとか…。考えるヤツや考えるからね。

ま、それは良い。
この街は野菜が安いから住み易い。昨日の買い物のレシートの画像を載せとくけれど、ま、これだけあれば1週間はもつので…。あと、近くのスーパーで加工食品とか青野菜を買うのだけれど。

買い物レシート

セブンイレブンの問題で、同一商品同一価格が安心をもたらす、なんてことを言っていたのだけれど、そうなのだろうか。どこにいっても同じ値段、確かに安心だけれど、ぼったくりバーみたいなところがあるという前提があれば確かに安心だろうけれど、コンビニで販売している商品売価にそれほどの差があるとは思えないし。

コンビニとスーパーが競合しなかったのは、買いやすさとか、コンパクトさとか、手軽さとか、速さとかがコンビニのほうが勝っていたからだろうと思う。レジの速さだけではなくて、新商品の入荷の早さとか、回転の速さとかなんだけれど。決して価格ではないと思う。そこを価格で勝負なんて言い出すと、やはりスーパーには勝てないだろうし。それを求めるのならば業態の違う店舗を出店するということになるのだろうし。例えばローソン99のような。

昨日のテレビ番組で(サキヨミだったかな)9割近くのコンビニオーナーは見切り販売をしない、というアンケート結果が出ていたけれど、スーパー方式の採用して価格競争を始めるとスーパーには勝てないことを知っているのだろうと思う。それに安いから来るという客はコンビニには少ないのだろう。見切り販売をやっているから行く、なんて客も稀なのだろうし、やっているとしてもスーパーのように必ずあるとも限らないし。(スーパーもそうなんだけれど、スーパーは見切り販売というよりもタイムサービス的な売価設定という感じだもんね)

要するに値段ではないのだよ。ボクたちがコンビニに求めているものは、冷蔵庫を開けるくらいの手軽さ、パジャマでこんばんはぐらいの気軽さ、30坪というスペースの心地よさみたいなものだろうと思うのだけれど。だから30年たとうがあのパターンは変わらないのだろうし。

同一業種同一パターンってことなら、分かるけれど。日本中どの店行っても、だいたい予想はつくからね。本があって、ソフトドリンクがあって、雑貨、お菓子、パン、惣菜、米飯、おでんにレジ。そんで「ありがとうございます、またお越しください」という決まりきった挨拶。ま、価格が同じだってこともあるのだけれど、そういうものを一切合財含めて、クローン化店舗の安心感みたいなものがあるのだろうと思う。

と、もうひとつ言うならば、鮮度かなあ。それは速さということなんだけれど。商品の回転が速いということは、鮮度が良いということなので、そこを自ら崩すのが怖いと思っているから9割が「しない」と言うのだろうと思う。それはセブンイレブンだけではなくて、ローソンでもファミマでも同じで、そこがコンビニの肝だって分かっているのだろうと思う。スーパーとは違うということを主張しないと負けるのだから。

ボクが考える未来のコンビニ像はやっぱり福祉と結びついたサービスかなあ。見切り販売とかではなくて、福祉弁当とかの宅配とか。高齢化する社会で、その商圏の中でさらにきめ細かいサービスをするということが生き残る方法だと思うのだけれど。ま、それぐらいは、分かっているのだろうけれど。そうなるとワタミみたいなもんか。ま、それでも、住民に近い位置にいるということも、強みのひとつなんだろうけれどね。たぶん、コンビニオーナーってのはその店の客500人ぐらいの名前は憶えてるよ、きっとね。知らないと思っていても、支払いや宅配便なんかの受付の時にちゃんとインプットしてるから。そういう地域密着性ってのがあるからね。

あ、あと、もう話題になったけれど、電気自動車の充電スタンドにもなるそうだし。「やっぱりセブンの電気は良いよね」なんて言うのかなあ。

ま、まだまだ可能性はあるかなあ。なんて思っています。
なんて前回に続きコンビニ問題について。でもタイトルほどの内容ではなかったかなあ…。
トリドリの感想と椎名林檎さんの件
雨、いっぱい降ったね。
去年は空梅雨で、ボクは自転車通学だったので、それはそれでありがたっかたりした。通学時間に降ったのは1日だけだったからね。そう考えると、いつ降ったんだろう、なんて去年のことを思い出したりした。

21時頃からこのブログのパソコンでの閲覧が出来ませんでした。少し触っていたらタグの閉め忘れかなにかで記事を表示することができなくなって、焦って、そして焦って、復旧させましたが、その間1時間ほど。その間に「あれ?」なんて訪問していただいた方、ごめんなさい。携帯では大丈夫だったのですけれど。

携帯からのアクセスのほうが多い日があって、やっぱり最近は移動中とか休憩中とか食事中とかトイレの時間とか、あるいは入浴中とか、まれにHの最中とかにネットをする人が多いのだろうなあ、なんて思っている。携帯電話会社のCMではないけれど、一生のうちに何万回と携帯を開け閉めするのだから、たぶん、食物を租借する回数よりも多かったりするかもしれない。

そうなると、きっと携帯を操作するのに適した身体に進化するのだろうと思う。指が細くなったり、親指が柔軟に動くようになったり…。

そうなる前に、機械のほうが合わせてくれるか。

いろいろな進化とか、変化があるのが人なんだろうね。何かをきっかけに変わる。たぶん、その変化の度合いは女性のほうが大きいのだろうと思う。女性のほうが適応性があるのだし、だから変化しやすいのだろうし。とにかく環境によって微妙に変化するのが女性なのだろう。

久しぶりに、3日前のかな、「おもいっきりDON!」で、ともさかりえさんを見た。36歳ぐらいに思っていたら、まだ30歳なんだってね。それはそれで驚いた。いえ、老け顔ってことではなくて、なんだか昔からいるような気がしていたから。

たぶん、多くの男性は、肩のあたりのラインとか、ま、口元なんてのに、イカれてしまうのだろうね。そう思った。ボクもそうなのだけれど、あの鎖骨あたりから胸にかけて、そして上がって方の間接なんてラインがともさかりえなんだから。えっと足からのラインもだけれど、そう考えると線の人、なんて思った。

エロティックな線だよなあ、なんてテレビを見ていたのだけれど。「トリドリ。」は、彼女の新しいアルバム。句点が付くのですよ。「トリドリ」ではなくてね。

で、早速、いつものように、Amazonでチェックして。と、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」のところに、椎名林檎さんがいっぱい出ているので、どうしてかなあ、と見ていたら、曲を提供しているんだね。カエラさんとかも。友達だってことは「おもいっきりDON!」で話していたけれど。

で、感想だけれど(唐突ですが)、夢に出てくるね。あのラインのりえさんがね。ふと考えたのは、やっぱり40歳ぐらいのエロさ、じゃなくて妖艶さみたいなものがあるなあ、って。それはやっぱり、全体のラインというか、えっと、ま、豊満さの対極にあるものというか、そんな感じなんだけれど。

ということで、おやすみなさい。


ともさかりえ「トリドリ。」
トリドリ。

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