トヨタ期間従業員に行こう

トヨタ自動車期間従業員であった筆者が期間工、派遣社員、非正規社員についてや雇用の問題そして1年間にわたる失業生活、その後のタクシー運転手としての日々なんかをぬるめに書いています。

期間工物語(1)
あの2004年のことから書こうと思っている。

あの年のこと。
ボクが住んでいたあの街のことと、そして、あのビルでの出来事。ボクがこの物語を始めるきっかけとなった出来事が起きた日々のこと。ボクがまだいまより3歳若くて、そしてボクがまだ今よりももう少し夢を語れた頃、辛く悲しい思い出の頃。

まだ感触として残っている、あの夏のこと。肌に少しだけマトワリつくような空気。それが感触として残っていて、ボクを、悲しくさせる。いまでも夢に出てくるTさんと最後に会った日や、Kくんの声を最後に聞いた日、Mさんが泣いていた日々。

あの頃、ボクたちは猛暑といわれた夏をどう越すかということを考える余裕もなく、ベルトコンベアで運ばれるような日々を送っていて、やはりプラスチックのような街で、少し生きることの意味をなくしていて、幸せなんて言葉を使うことを、やっぱり少しだけ怖がっていて、その日の無事終わることを、ひたすら祈るような日々を送っていたんだ。


ボクが期間工として自動車工場の製造ラインで働くようになった2004年の春、トヨタ自動車聖心清風寮の桜はかろうじて残っていて、それだけがボクの気持ちを、ほんの少しだけ優しくさせた。

その春、ボクそれまで勤めていた会社を辞めて気持ちの整理もつかないまま、住んでいた街を離れて、それから就職活動をすることもなく、まるで予め決まっていたかのように期間工の面接を受けた。

面接はいたって簡単で、四肢に異常がないか、指は5本あるか、というチェック程度のものと、刺青はあるか、借金はあるか、という質問だった。当時は自動車バブルの黎明期、愛知県の求人倍率は2倍なんていう製造業では特に人手不足が言われていた。

そういうこともあって、ほぼ全員が採用されるという噂が大企業トヨタ自動車でさえ言われていた。「刺青がないこと」だけが条件ではあったが。そしてその通りボクも無事採用されて、3週間後には夜行バスに乗って名古屋駅に向かった。

ひまわり2009年(1)
期間工物語(2)
毎週毎週数百人規模で期間工を募集していて、そして数百人が集まっていた。まだ期間工が最長十一ヶ月の頃で(その年の5月入社から短期雇用法が適応されて二年十一ヶ月になった)、一年で総入替されていたというのもその募集の多さの理由だったのだろう。多くの期間工たちは半年間という短期の仕事のためにトヨタに来ていたように思ったし、ボクもそうだった。いわゆる出稼ぎ労働者として半年間働いて失業保険を受給するというパターンだ。毎週数百人が愛知県を去ってゆき、そして同じ数が愛知を目指す。愛知県はまるで失業者たちの聖地のようにも感じられた。

全国津々浦々から集まった失業者や出稼ぎ労働者たちは電車やバス、飛行機で豊田市を目指す。多くは名鉄土橋駅から出ている聖心清風寮行きのバスを利用する。聖地に相応しい少し古びた佇まいの駅舎がボクたちの初めて触れるトヨタの街だった。低い土地にある特有の湿っぽさや空気みたいなものは、ボクたちの知っている神聖な場所、例えば小さな神社のようでもあった。

そして会社が用意したバスに乗って寮に行く。受付順に部屋割りが決まる。4.5畳一間に二人があてられる。
ボクは「来たぞ」という高揚した気持ちではなくて、「とうとう来たか」なんていう少し落胆した気持ちで、その部屋に座っていた。

多くの期間工が、きっと同じ気持ちだろうと思う。
そしてまた多くの期間工がそうであるように、ストイックな期間工生活を望んでいたし、その生活のための道具一式はKarrimorの四十リットルのザックひとつだけで、宅配便での荷物もなかったんだ。それは今考えると、その春から十数年前のニューディリー空港に降り立ったボクと、ダブっていたように思う。期間従業員という場所は、ボクにとっては、通り過ぎるだけのところのように感じていたし、目的地は、というか、ボクには帰る場所があったのだし、そこが最終目的地ではないと思っていた。

何かが始まる前の禊、あるいは冬眠の時期、のようなもの、と多くの期間工は考えていたのかもしれない。一生の仕事として「期間」工を選択するわけがないと、ボクはその時は思っていた。


相部屋になった人は神奈川から来たボクよりは若い、それでも30を過ぎていた青年だった。明知工場に行くことになる彼もまた、失業から期間工へという選択をしたうちのひとりだった。「初めてですか」というのが彼の最初の言葉だった。その言葉は「不安です」と同義だった。そしてやはり半年間という通過点にしか過ぎないということだった。その通過点と思うこと、あるいは思い込ませることが、ボクたちの存在を確かめる術のようでもあった。

30代や40代の人たちが期間工に来るということは、そういうことだった。何かを失くして、いや全てを失くしてしまって、そして更に何かを捨ててそこにいたのだし、これからも捨てなければならないものがタップリと目の前にあった。そのことを薄々知っていたし、もう4畳半の狭い部屋に見ず知らずの人2人でいるということも、そのひとつだった。そして夕食のチケットを持って、行列を作って離れた食堂まで行進をしてゆく。そこで「こんなの吉野家で出したら倒産だな」なんて言われる牛丼を食べる。そして満員の風呂に入る。

人がラインに乗って流れる日々の始まりだった。ライン作業をするのではなくて、ラインに乗っているのだ。寥々とした空間。沈黙のバスが象徴しているように、時間はボクたちを有無も言わせず運んび去った。工場というさらに孤独な空間へ。そして時間に合わせて黙々とラインダンスを踊る、ある意味トランス状態の日々が始まるのだった。

ボクたちは、プライドとか人間らしさとか、そういった少し軽めの言葉で表されるものを捨てたのではなくて、もっと巧妙に仕掛けられた罠の中にいて、苦痛や疲労、窮屈や閉塞なんてことを快感にされていたように薄々感じ取っていたのだけれど、それでもボクたちは思い込ませることによって、存在を確かめていた。「半年だけなんだから」と…。

そして全てを捨てたとしても、それぐらいの時間ならば死んだふりも出来るようでもあった。

ひまわり2009(2)
期間工物語(3)
入寮した次の日、月曜日は健康診断の日だった。履歴書持参の面接だけで合否を決めるトヨタの採用システムで、面接よりはこの健康診断で不合格になる割合のほうが多いという噂もあった。あるいは、健康診断を安全弁としているのかもしれない。

300人もの健康診断を1日で終わらせるためには、やはりトヨタ生産システムが使われてたのだろう。300もの男たち(女性は1〜2%)がいるのだけれど、病院の中は静まりかえっていた。異様な風景だった。ボクはガス室に送り込まれる人たちを想像した。そのことを強く思ったのは「裸踊り」と言われるパンツ一枚になって体操をする検査の時だった。(それは恐らく刺青がないことを確認するための体操だったのだろうと思った。面接の時もそのことを確認された。)

今までやったことがなかったし、何か滑稽でもあった。ボクたちは踊らされていた。そしてその先にガス室が待っていたとしても誰も逆らう者はいないのではないかというほど従順だった。

裸で男たちが踊る。それを女性看護師2人が眺めている。ガムをクチャクチャやりながら、ニヤニヤ笑ってはいなかったのだけれど、多くの男たちは、羞恥心からだろうか身体が赤く火照っていた。寒さのせいではないはずだった。軽度の運動のせいでもないはずだった。

その後、服を着ることなく問診があった。何もかも効率的に行われる。タクトタイムとして人間ひとりに対して70秒の時間が割り当てられているように感じていた。ボクたちは初日からラインに乗せられていたのだ。いや、生きるという能動的なことさえも、システムの中では単に生かされれているだけなのかもしれないと思った。作っているようで、実は作らされている、それが製造ラインのようでもあった。

そうして翌火曜日は、あの「肩叩き」の日だった。
「○○さんですね、荷物をまとめて来ていただけますか」と肩を叩かれる。
健康診断、特に血液検査で不合格になる人たちは、寮事務所に呼ばれて不合格になった理由を聞かされる。多くの人はその日のうちに豊田市を去って行く。さよならを言えないまま、2日前とは逆のルートを辿って田舎へと帰ってゆく。

土橋駅行きのタクシーがないのも火曜日の午後。
不合格になった人が乗り合いで土橋駅に行くなんてことは、近親相姦にも似た不埒なことで、孤独ということだけが唯一の救いのようでもあった。ボクたちが救われるのは、いつも孤独、そして沈黙だった。きっと、喋ってしまうと、泣き崩れる人が何人かいるはずだった。あるいは何人かは罵倒するはずだった。

その肩叩きは厳粛に執り行われる。宣告はさも残念なことのように粛々と告げられる。その対照として合格した人たち、ボクたちは、それまで抱いてた仕事に対する不安や、そこに持ち込んでいた人生に対する絶望なんてもの一切合切が「喜び」に変換される。そんな儀式のようなものでもあった。肩叩きの儀式は、良く出来た、あるいは、陳腐な田舎芝居を見ているようでもあった。巧妙な宗教的儀式として役割を持っていたとしてもだ。

その年の桜の花はいつまでも散らずにあった。桜の花をどちらかというと忌々しく思った。休憩の時間に外を見ると、荷物を抱えて門を出てゆくおじさんと目が合った。ボクは頭を下げた。おじさんも頭を下げた。それだけのことだったのだけれど、悲しくなった。今思うと肩を叩かれたほうが幸せだったのかもしれないと思う。そう思わせることが、その後ボクの目の前で起きたのだから。

ひまわり2009年(3)
期間工物語(4)
月曜日の「裸踊り」、そして火曜日の「肩叩き」を無事に過ごすと火曜日の夜には田原工場への配属者が決まる。掲示板に貼りだされる。(最近では水曜日発表、木曜日移動になったみたいだけれど)田原工場配属が嫌がられる理由のひとつはその早さにある。他の工場の人たちにとって火曜日は「健康診断も終わったり飲みに行くか」あるいは「ちょっと散歩でも」なんてひと息もふた息も付く夜なのだ。

対照的に田原工場に決まった人たちは荷物の整理をする。手荷物以外の荷物は別便で翌朝配送するのでパッキングをしなおさなければならない。そして緊張する。

ボクはその田原組には入らなかった。そしてやはり刑の執行が延期されたことへの安堵感から少しダラリとなっていた。出勤準備をした朝が休みだった、というような感じの時間だった。同室の神奈川からの男性も田原組に入っていなかったことを「良かったですね」と言った。延期されただけで、かならずどこかに配属されるのだけれど…。

次の日の夜には全ての配属先が決まった。そして寮も決定した。ボクの名前に横には高岡工場、そして田中和風寮と書かれていた。行き先が決定したと言うことで、心臓がビクピク不自然に動いていた。煙草を吸いたいと思った。もうその時は禁煙して3年経っていたのだけれど。

田中和風寮に入寮する人を除いて全ての人が受け入れ寮からいなくなった。ボクたちは金曜日に工場に出勤して、そしてその後に寮に入るということになっていた。一番最後まで居ることが出来るということが少しうれしくもあった。その時はまだ田中和風寮がどんなものか知らなかったのだけれど。

その金曜日の夕方、ボクたち20人ほどは田中和風寮の食堂に集合した。あの頃は食堂も閉鎖されていて、受け入れの説明会の時と、年に2、3度ある寮生会主催のパーティにしか使われていなかった。

その説明が終わると、ボクたちは部屋へ散らばって行った。ボクの部屋は10階だった。そしてA室だった。廊下側の部屋、高さ40センチほどの窓しか開かない昼間でも薄暗い部屋、そして夜は人の足音がすぐそこに聞こえる、あの田中和風寮でも最悪と言われた部屋だった。ボクはそれでも、不満も不平もなかった。「半年間だけ」あるいは「遊びに来たのではないのだから」ということを呪文として唱えていたとしてもだ。

B室もC室も人はいた。誰も出てくる気配はしなかった。テレビの音だけが静かに流れていた。ちょうどニュースの時間だったのだろう、人の声が左右ばらばらに聞こえていた。ふすまを通して玄関の6畳ほどの部屋に届くその音は、つかめそうなほどの湿り気を帯びてこもっていた。そして足元を流れていた。読経のようでもあった。

ボクはそのふすまの扉をノックした。「ボツッ、ボツッ」と鳴った。そして中から声が聞こえてふすまがあいた。「今日から入ることになった田原です。よろしくお願いします」とMさんに言った。Mさんも「あ、よろしくお願いします」と言った。それから回れ右をして、Mさんのドアと同じ柱で蝶番によって張り付いているふすまを「ボツッ、ボツッ」と叩いた。

予め用意していたように登場したのがTさんだった。もうボクの音は聞こえているはずだった。その割には驚いたような表情を浮かべて「こ、こ、こんにちは」と少し吃音ぎみに挨拶を返してくれた。それ以上の会話はなかった。というよりも、楽しそうに話すことはその場に相応しくないように感じた。テレビから流れる音以外は許されないような、神聖さを感じた。足元に「ウ〜」という低いうめき声が絶えず入り口に向かって流れていた。

ボクは自分の部屋に入った。そしてテレビのスイッチを入れた。Mさんの部屋と同じ音のするチャンネルに合わせた。そして牢獄のような窓を眺めた。高さ40センチ幅90センチが開放される空間だった。そしてそこが唯一の通路だった。ボクと外を繋ぐという意味でなんだけれど…。

夏の夕暮れに路地で見た花
期間工物語(5)
金曜日の夜だったのだけれど、ボクが住むことになった10階の部屋には、週末であるという浮かれた空気はなくて、ふすまから漏れるテレビの音が床を這って入り口の鉄扉へ向かっていた。

Mさんと少ししてから共同部分で会った。その時、Mさんは不思議なことを言ったんだ。「私、出身は韓国なんです」とボクには聞えたのだけれど、それがどういう意味なのかは、そのときには分からなかったんだ。「そうなんですか」とだけ、ボクは答えたように思う。「名前読めないでしょ?」と名札を指差して言うMさんのその指の方向にある名前を、確かにボクは読めなかった。もうそれ以上聞くのは、ボクにはとても疲れる作業のように思えたし、それは何かいけないことのような感じもしたんだ。

トヨタ自動車の大きな雇用力というものは、初回40歳、経験者だと59歳まで雇うという年齢の壁がない/低いことだと思う。(その後初回49歳になりましたが)それとは別に、例えば応募するのに必要なものといえば履歴書一枚だけで、その過去になにがあったとかということはほとんど問題にならないし、現在においても履歴書を調べているのかということさへも疑問に思うぐらい、簡単に入社できるということ、すなわちほとんど壁がない/低いということなんだと思う。

よく言われることなんだけれど、身元保証人がひとりいれば、それも確認の電話とかもないから身元保証人の名前と印鑑さえあれば入社できるので、「驚くような経歴の人がいる」そうだ。確かに応募する本人さへも雇用保険被保険者証と年金手帳だけが本人を確認する方法だけのものだから、それさへ手に入れれば、たとえ本人でなくても入社できるのではないかと思う時がある。

いろいろな人がいるということは、何もそんなことを考えなくても、あの田中和風寮やボクたちが現在住んでいるトヨタ自動車の寮を考えれば、「確かに、いろいろいるよ」と納得いくと思う。刺青が有る人は面接で落とされるのだけれど、せいぜいそれぐらいがふるい分けしかなくて、そしてそれがトヨタの何かを守るための必須条件なのかと考えると、その何かとは、やはり作業中や寮生活の秩序なのかと思っているんだ。

要するに、ボクは、トヨタが求めるのは、ごく普通の人たちで、その人たちには極力感情を抑えて仕事なり寮生活を送ってもらいたいのではないかと考えている。たとえば任侠道を歩き続ける男気のある人だと、CLやGLと切った張ったになるようなことだってあるだろうし、配属組で「組」を作らないとも言えないだろうから、歩くとしたら「トヨタ道」をまっしぐらという人のほうが好ましいのだろうと、思っている。

あの田中和風寮の部屋も、ごく普通の人たちが住んでいて、そして表向きには感情を抑えて暮らしていた。Mさんがネイティブなコリアンだったとしても、それは特に問題にならなかったし、それどころか後輩であるボクやTさんには頼りになる人だったんだ。

その年、2004年には「冬のソナタ」がテレビ放映されていた。Mさんは毎日欠かさず見ているようだった。あの音楽と韓国語の台詞がフスマ越しに聞えてきていた。それはMさんの二直の時の日課で、そして番組が終わると必ず家に電話していた。Mさんの家は関西のほうで、そこには奥さんと2人の子供がいるということだった。

電話はまず奥さんと話して、そして最後は子供たちと替わって、ただ「うん、そうなんだ、そうそう」なんて言葉の繰り返しで、受話器の向こうから聞える我が子の成長をただ思い出しているようでもあった。そして最後はいつも泣いていた。

Mさんの悲しみは、きっと、その韓国語のドラマを見た後にわが子と話すということにおいて、自分たちの運命なんてものを、少しだけ思っていたのかもしれない、とボクは考えていた。「今度帰るからね」といつも言っていた。それほど遠い距離でもない家族の間が、多分Mさんには永遠のように感じられたのかもしれない。鼻をすする音が聞えていた。

ボクの2直の朝は、いつも冬ソナのあの歌と、そしてMさんの泣き声で始まっていた。フスマ一枚隔てた向こうから聞えていた。ボクはいつももらい泣きしていたし、それはTさんも同じだったに違いないと思う。ボクたちは何かと別れを告げて田中和風寮に住んでいたし、トヨタに来ていた。それがトヨタに出稼ぎに来るということだった。

あの11階建ての巨大な寮の中には、どれだけの喜びや悲しみが詰まっていたのだろうか。喜びよりも悲しみのほうが圧倒的に多くて、伝説の寮なんて言われているのだけれど、実は悲しみの寮で、フスマ一枚で仕切られているだけなので、男たちは声を押し殺してむせび泣くことしか出来ない。それがさらに悲しみを深重なものへとしてしまうのだろうと、ボクは、あの頃思っていた。

今でもあの頃のMさんの、表現できないような声を憶えていて、冬ソナの音楽が聞えてくると、あの頃のボクたちの朝を思い出して、やっぱり胸が苦しくなって、泣けてくるのだ。

田中和風寮
期間工物語(6)
次の週、月曜日には部ごとに分かれて簡単な訓練をした。スポット溶接機の使い方とか、チップ交換のやり方なんてことを習った。そして火曜日に配属される組に分かれた。それからGL(グループリーダー)の安全教育があり、標準作業書を見てこれからボクが行う工程を文字と写真で確認する作業をした。

次の日にはその工程に入り、先輩期間工から教えてもらうことになった。まだ20代前半のYくんは、愛知県出身でやる気のなさが態度だけではなくて言葉からも感じられた。「ま、こんな感じで」とか「こんなもんで」とかを連発した。そして少し質問すると「適当に」「だいたいで」という言葉を使った。キッチリしていたら時間に間に合わないということもあったのだけれど、彼は既にカンやコツを習得していて、それが数値ではなくて「だいたい」という感覚的な表現になったのだろうと思う。トヨタ自動車と言えども、全てを数値化するのは難しいのだろう。それを「カン・コツ」なんて技術と言ったりもするのだろうと思った。

作業訓練で一週間が終わった。右も左も分からないということはそれだけで疲れる。ボクのいた組には10人の期間工がいた。社員はGLを入れて6人。休憩時間に楽しそうに談笑するということはなかった。休憩所でも沈黙が支配していた。沈黙、というよりも、脳内にドーパミンとかアドレナリンが充満していて、少しハイになっているようでもあった。ライン作業の時間割(ラインタクト)は、平均的な人が出来るギリギリのところで決定されている。余裕というムダは出ないようになっているのだ。集中を強いられる、そして流れるラインに合わせて身体の動きを強いられる。ラインダンスというのは、人の動きからさえもムダを省いた流れるような四肢の動かし方なのだ。それがダンスを踊っているように、繰り返し繰り返し行われる。身体が麻痺する。ラインが止まっても、踊ろうとする人もいる。あるいは夢の中でさえボルトを締めることもある。

そこから開放されるとハイになる。そこに疲労が重なると沈黙こそが気持ち良いことになる。朝もそうだ。身体が予感を始める。いろいろな脳内物質の分泌の準備をする。そして沈黙が始まる。沈黙が癖になる。そして黙っていれば問題は起きない。口は災いの元、なのだから、沈黙こそが組織を維持する最良の方法なのだ。あるいは意図的に社員たちが沈黙しているのかもしれない。不平や不満なんてものも出ない。数が逆転しているのだ。期間工という非組合員、非正規社員のほうが多い組織、集団ではお互いに監視させるという社会主義国家でよくあるような、例えばオーウェルの1984年のような仕組みが最も適しているのだろう。仲良くなることは危険なのだから。

非正規社員のほうが多くなると、これまでにはない管理方法が必要になったのだろう。トヨタは既に大量の期間工を雇用してきたので、そういったシステムは出来ているのかもしれない。そういうものを含めてトヨタ生産方式と言うように思った。

1週間は早かった。そしてまた金曜日がやって来た。ボクたちは週末だけを待っているように思った。そしてその先にある期間満了という日を。それが期間工というものだったのだから。そしていろいろなことも、その日が来るという確約があるから耐えられたのだろうと思う。

雨に散った花びら
期間工物語(7)
そんな週末の4度目はゴールデンウィークの長期連休だった。TさんもMさんも帰省した。そして部屋にはボクひとりになった。期間工の3割ほどは帰省しないで寮にいた。11階建て2棟の巨大な寮は廃墟のように感じられた。

GWの最終日の前日にTさんが戻ってきた。Tさんは、ボクよりも少し前に入社した30代後半の人だった。身体の大きさとは反対に、声は小さくて聞き取りにくかった。口の開け方が悪いように思ったし、それはもう身体に染み付いた癖みたいなもので、本人に自覚症状があったところでもうどうにもならないようにも感じた。それが子供っぽいということに受け取られていたのかもしれないと、思ったし、実際、初めて故郷を離れて生活しているのではないかと思えるような感じもした。

翌日、Mさんも戻ってきた。寮は賑やかくなった。賑やかくなったのだけれど、それは人が多いというだけで、例えば都会の雑踏の賑やかさだった。ひとりひとりの精神状態は鬱々としたものだった。巨大なブルーマンデーが襲っていた。またあの薄暗い沈黙が待っていて、昨日までの春のキラキラした感じとは正反対のものだった。

TさんもMさんも、そしてボクも、そういった憂鬱の時間を過ごしていた。2直(15時始業)始まりということも、気持ちを重くした。昨日の今頃は、一昨日の今頃は、という楽しい時間の思い出がグルグルと思い出された。

Tさんは、その頃からよく独り言を言うようになっていた。ボクと同じ高岡工場だったので、送迎バスの中でTさんを見るときがあった。そしてそういう人混みの中でもなにかボソボソと言っているようだった。

「どうしてオレはここにいるんだろう」と、Tさんは独り言ちた。
「どうして県職員を辞めたのだろう」と続けた。

Tさんの前職は関西のある県の職員だった。建設課というのが彼の職場だった。「真面目」というのが彼に与えられた上司や同僚からの称号だった。酒も煙草もやらなかった。世間でよく言われる「おくて」の男だった。真面目というのは時として侮蔑の表現として使われる。Tさんのいない飲み会の時に「気持ち悪い」と露骨に言う女性職員もいた。

市役所に勤めていた父親とは高校2年の時に死別した。上にお姉さんがいたのだけれど、Tさんが大学を卒業した年に結婚して、それから母子ふたりの生活をしていた。なにひとつ不自由に感じたことはなかった。父親の死は彼を自由にしたようでもあった。そしてその環境に満足していた。形を変えること、例えば朝の起床時間を10分早くするという変化さえも、彼には恐怖に感じていた。

好きな女性もそれまでに何人か出来たのだけれど、告白できずに、そして縁もなく、30歳になり、そして35歳になった。母親と姉は家のことを案じた。

Tさんが期間工に来る原因、失業したのは36歳の春だった。勤務先近くの墓地公園に花見に行って、飲めない酒を少し飲んだことが原因だった。いつもなら早めに帰る。そしてそれを10年以上も続けてきた。参加しない飲み会もあったし、1時間ほどで席を立つ時もあったのだけれど、その夜は最後までいようと何故だか思った。そしてそうした。

酔っ払っていた。Tさんを除いて全員が、いつものとは違う様子だった。違うと思ったのはTさんだけで、他の人たちにとってはそれが普通だった。そしていつものように、TさんがそこにいるのにTさんの噂話をする女性職員がいた。誰も止めようとしなかった。性格的なもの、そして性的なことまで露骨に批判された。そのこともTさんを除く全員にとっては普通のことだった。普通のことが普通に執り行われていた。

金曜日の夜だった。花見の客でまだ賑わっていた。Tさんは隠れるようにその場所を去った。何人かが気づいた。だが誰もが酔っていた。そしていつものことだった。それは「じゃあ、次に行くか」というぐらいいつものことだったので、善悪の感覚さえも麻痺していた。

サボテンの花
期間工物語(8)
「どうしてオレはここにいるんだろう」と、Tさんは独り言ちた。
墓地公園から家まで歩いて帰った。1時間ほど歩いた。家に帰ると母親が食事の準備をして待っていた。Tさんはその食事を摂ってそのまま部屋に行った。「お風呂は」と母親の声がしたのだけれど、聞こえないふりをした。というか、言葉を出すことが煩わしかった。

その夜は眠れなかった。そして明け方からお昼ごろまで眠った。土曜日の夜も眠れなかった。そして明け方からお昼まで寝た。休日に朝食を取らないということはたまにあったので、母親はさほど気にも留めなかった。

日曜日の夜も眠れなかった。そして月曜日の朝、起きない息子を母親は必死に起こした。Tさんは起きなかった。そして母親に向かって「今日は休むから電話しといて」と頼んだ。母親は「熱があるようなので」とTさんの上司に電話をした。

次の日も、そして次の日も母親が電話した。そして一週間が終わった。Tさんはお昼過ぎに起きて、昼食を食べてからまた部屋に閉じ篭もり、そして夕食を食べてから閉じ篭もるということを繰り返した。金曜日の夜が終わった時、Tさんは少し安心した。休日には何も考えなくてすむと思った。

そして日曜日の夜は「明日は行こう」と思った。しかし月曜日の朝になると、布団から出ることが出来なかった。お昼過ぎになると安心した。そして「明日はなんとか」と決心をした。同じことだった。

水曜日に上司である課長が家に来た。それでもTさんは会おうとしなかった。電気を消した真っ暗の部屋の中で母親と課長の話を聞いていた。「明日は…」という気持ちもなくなった。そして次の朝、母親に「辞める」と告げた。そうしたら少し気が楽になった。それでも一度は職場に行かなければならなかった。それが出来なかった。あの時の言葉がヌルっと身体にまとわり付いていた。

Tさんは動けないでいた。あの日から家の外に出るということはなかった。あの日から部屋と食卓の往復だった。母親との会話も少なくなっていった。それを心配したのか母親はお姉さんを呼んだ。だがTさんがお姉さんと話すということはなかった。

Tさんの代りに母親が県事務所に行って退職の手続きをした。そして荷物を引き取った。あれから1か月近くが過ぎていた。Tさんは相変わらず動けないでいた。季節は春から初夏へと変わっていた。ゴールデンウィークが始まろうとしていた。

田中和風寮A室
期間工物語(9)
春の陽気が部屋に引きこもることを心地よいものにした。
「よくあんな退屈な場所へ毎日通っていたものだ」とTさんはつぶやいた。「いったい何が楽しくて毎日通っていたのだろう」と続けた。

相変わらず家の外には出ない日々を送っていた。「真面目」な性格と家賃も食費もいらない生活だったため貯金もそこそこあった。母親もしばらくはそっとしておこうと思っていた。そしてどこの母親もそうするように、息子のことよりも自分のことを責めた。「お父さんが死んでから、私がもう少し厳しくいしていれば…」なんて内省が習慣になった。

息子Tさんは、その間もほとんど何も考えることなくほとんどの時間をパソコンの前で過ごす毎日だった。変化と言えばハローワークに月に何度か行くようになったことだった。離職表が会社から届き、失業保険の手続きのためにハローワークに行かなければならなかった。いや、それも本当は面倒くさかったのだけれど、母親に強く頼まれた行くようになったのだ。母親はそれがきっかけで息子が外に出るようになればと祈っていた。そして泣きながら息子に懇願した。

夏が終わり、そして秋が来た。その秋も終わり冬が来た。8ヶ月、9ヶ月なんて時間はあっという間だった。そしてまた春が来た。失業保険の受給期間は終わっていた。もう失業認定も、就職活動のための検索もする必要もなかった。そうなると心地よい気候も手伝って、また閉じこもる日々が続いた。1年は早かった。その思ってもみなかった速度が、時間というものを心地よいものにしていた。時間は流れる。時間に拘束されないことの自由さをTさんは感じていた。

それでも1日に1回は「オレはどうしてここにいるんだろう」という自問をした。「なにやってんだろうね」と思った。自問、自省…。そして自傷。それはリストカットなどという能動的な行動ではなくて、精神の部分に随分とダメージを与えていた。1年以上も対人関係がなかった。仕事に対して、いや、それ以前の面接や応募ということでの人との関係が恐怖だった。なによりも家の外に出ることも、その頃には怖くなっていた。

地方の小さな町では、自意識の中に世間というものが常に粘着していた。それは声であったり視線であったりするのだけれど、玄関を出るとそこにすでに待ち構えている他者がいる。人間と言う形ではなくて、分かりやすく言えば監視カメラのようなものがいたる所に設置していて、それが各家庭のテレビに繋がっている、それを感じさせるのが田舎の路地というもの、世間というものなのだ。

そしてほとんどの人たちがTさんの引きこもりを知っていた。知っていたのだけれど、知らないふりをしていた。監視カメラで見ているとはいえ、その監視カメラは常に自分にも向けられているからだ。コソコソ見ている自分たちもまた見られているという二重構造の監視システムになっている。それが田舎の世間なのだ。

隣のオヤジがたまにTさんの母親に声をかけた。「最近は景気も悪くて、良い仕事もないからなあ」。そして母親は答えた「ええ、良いところがあったら紹介して下さい」。「ああ、気にかけとくよ」。当たり障りのないところで会話は打ち切られた。その話に尾ひれが付いてオヤジの家の食卓の話題に登ったとしても、直接本人のことを聞くには遠慮があった。

そうした遠慮もTさんの引きこもりを長引かせる要因だったのだけれど。

桜が咲いた。1年が過ぎた。Tさんの話題は職場からすでに消えていた。Tさんの内省はいまだ会社のことに留まっていたのだけれど。少しのこと、それは「ボタンの掛け違い」なんてことよりももっと些細な出来事、例えば、いつも右足から靴を履くのに左足から履いた、なんて本人も憶えていないこと、他人からも分からないこと、そんなことから人生は大きく変わる。そうTさんは考えていた。

鉄橋
期間工物語(10)
時はゆっくり流れた、あるいは慌しく流れた、というのは小説や唄のなかでの描写手法でしかないように感じる。時間はなんとなく流れた。時間の速度は自分の行動の速度によって決まる。エンドレスの内省を繰り返すTさんにとって、時間もまたエンドレスの、例えばゼンマイ仕掛けのようなものだった。

母親は冬の終わり頃から神社に行くのが日課になっていた。百度石と拝殿の間を何度も行き来した。彼女もまたゼンマイ仕掛けのようでもあった。そのことをTさんは知っているようでもあった。

「どうするつもりなの」
と母親は桜が終わった頃聞いた。Tさんは「う〜ん」と下を向くだけだった。「慌てなくてもいいけど、たまには外に出たほうが…」と続けた。おとなしい子供であった。そして真面目だった。友人と呼べる同級生はいなかったし、中高校と休み時間は机に座って、教科書を見つめているような子供だった。ひとりだったのだけれど、自意識での嫌悪感や罪悪感はなかった。そうすることが好きな風であった。あるいはその場に居合わせたとしたら「愚鈍さ」みたいなものをTさんに感じたかもしれない。そんな子供だった。

学校は楽しいところではなかったけれど、そして多少の居心地の悪さを感じたとしても、不登校になるということはなかった。授業を受けてさえいれば時間は過ぎた。その間の休憩やお昼休みが、学校と言う集団のいびつな部分が現出する時間なのだ。そこさえクリアすれば、無口であろうとなにも問題はないはずだった。Tさんはいつも思っていた「休み時間なんてなければいいのに…」。1日のうちの1時間と少しの間だけが、窮屈だった。

そういったこともあってか勉強は出来るほうだった。そして地元の国立大学に進学した。そこでもうまくコミュニケーションすることが出来ずに、やはり友人と呼べる仲間も作ることなく卒業した。もう無口であるということは、Tさんの中では普通のことになっていて、例えば隣の席の人とは朝の挨拶と帰りの挨拶ぐらいしかしないとしても、気にならないほどになっていた。普通ならば考え込んでしまうと思うのだけれど、Tさんに中では上手に消化されていて、そして自己免疫機能さえ身につけているようでもあった。

家庭でもそうだった。母親とふたりっきりになってからは、いつまでも通夜のようであった。それでも、学校に行ってそして成績もそこそこであったし、休むこともなかったので母親はそんなもんだろうと思っていた。父親がいたならば、少しはその異変に少しは気が付いていたのかもしれないのだろうけれど…。

「何か買ってきて欲しいものはある?」と母親が聞いた。Tさんは欲しい物はあったのだけれど、母親には分からないだろうと思ったし、いつものようにネットショッピングを利用しようと思った。そして「ないよ」と言った。そう言っても母親は下着や洋服をたまに買ってきては渡していた。

いろいろな欲が無くなっていることも母親には恐怖だった。食べたいものも「ないよ」というのがいつもだった。37歳の男にどう接すれば良いのか、母親には難しいことだった。それまで何もなく過ぎていたので、親子の関係までも「愚鈍」になってしまっていた。

ゴールデンウィークが終わり、気温も上がる頃、母親の百度詣りの効果があったのか、少しTさんに変化が現れていた。いや、そういう母親の姿を見て、自分の責任を考え始めていたのだった。変化の兆しはあったとしても、時間はゼンマイ仕掛けのように流れていた。

夏空にコスモス

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